いわぶち 友

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経済産業委員会/
決算委員会/
東日本大震災復興特別委員会/
国民生活・経済に関する調査会

いわぶち 友

経済産業委員会/
決算委員会/
東日本大震災復興特別委員会/
国民生活・経済に関する調査会

プロフィール


平和が原点 外をかけまわっていた子ども時代

1976年10月生まれ。福島県喜多方市の出身。家族は両親と弟と妹です。父の転勤で小学2年生から会津若松市へ、中学2年生から福島市で育ちました。母の実家はいわき市にあり、福島県そのものがふるさとです。

子どもの頃は、兄弟や近所の友だちと木に登ったり、野球をしたり、秘密基地をつくったりして遊んでいました。

我が家には絵本がたくさんありました。原爆や戦争の絵本もあり、原爆も戦争も絶対にイヤだと子ども心に思いながら育ちました。平和を願う原点はここにあります。

中学入学と同時にバレーボール部に入部。入部のきっかけは忘れてしまいましたが、転校をきっかけに練習がきつかったバレーボール部をやめ美術部へ。ある時部活で作製した切り絵を廊下に展示してもらったのですが逆さま。言い出せませんでしたが何も言われませんでした。美術館めぐりなど、美術に触れることは今でも大好きです。

子どもの頃、友だちとそり遊び
子どもの頃、友だちとそり遊び

戦争のない平和な社会を願って子どもの頃から集会に参加
戦争のない平和な社会を願って
子どもの頃から集会に参加

中学1年生 入学式
中学1年生 入学式

民青同盟に加盟 仲間と平和について考えた高校生時代

高校入学を控えた春休み、民青同盟の先輩たちが家にやってきました。「民青同盟に入らないか」と勧められ、何気なく加盟を決意。さっそく「春の講座」というイベントに参加しました。初めて会った人たちと歌ったり踊ったり。正直恥ずかしく、ここはいったいどんなところ?!と思いましたが、自分たちで運営し、学校では学べないことを同世代の仲間と学ぶことができることに魅力を感じました。

高校1年生の夏休み、広島で開催された原水爆禁止世界大会に高校生班の代表として参加。これまで本や映像でしか見たことのなかった広島に直接触れる機会になりました。被ばく者の方の話を直接聞き、資料館などで被ばくの実相に触れ、核兵器をなくすという思いや体験を引き継ぐのは私たちの世代だと強く思いました。高校生集会にも参加し、「平和」とは何かを語りあったことや、海外からの代表にメッセージをもらったことなども刺激になりました。

高校生時代は友だちに誘われて演劇部に入部。照明など裏方をしていました。

高校1年生 原水爆禁止世界大会へ
高校1年生 原水爆禁止世界大会へ

高校2年生 修学旅行で奈良へ
高校2年生 修学旅行で奈良へ


日本共産党に入党 学び行動した大学生時代

大学進学後、民青同盟での学びがきっかけとなり、戦争もない差別もない「誰もが人間らしく生きられる社会をつくりたい」という思いで日本共産党に入党しました。

授業での課題をきっかけに薬害エイズ問題を知り、学内で「薬害エイズを考える会」の立ち上げに関わり、学習会や署名活動を行い、厚生省前の座り込みにも参加しました。国・製薬会社が断罪され、社会は変えることができると実感しました。

大学4年生のとき、大学内で国会議員の講演会が開催されたことをきっかけに、日本共産党の国会議員も呼ぼうと話し合い、松本善明さん(当時衆院議員)を大学に招いて、日本の今とこれからについて語り合ったこともありました。

大学時代はゼミ活動にも力を入れていました。毎週のゼミや県内各地の調査などだけではなく、スイカ割りや年越しそばを食べたるなどの交流も行い、卒業旅行では韓国にも行きました。ゼミの仲間とはなかなか会うことはできませんが、今も交流を続けています。

大学1年生 大学内で薬害エイズ問題の署名に取り組む
大学1年生
大学内で薬害エイズ問題の署名に取り組む

大学1年生ゼミの卒業旅行で韓国へ
大学4年生
ゼミの卒業旅行で韓国へ

消費生活センターの相談員として 社会人時代

大学卒業後は公務員を目指し、県庁で臨時職員や嘱託職員をしていました。そのなかで県消費生活センターの相談員もしていました。悪質商法の相談はもちろん、当時は架空請求の被害が増え始めた頃でした。多重債務の問題を涙ながらに相談する方もいらっしゃいました。どうして多重債務にならなくてはいけなかったのか、悪質商法の背景にはどんなことがあるのか、社会を変えなくてはならないと思いながら相談にあたっていました。

若者たちと声をあげ、社会は変えられると実感 民青同盟県委員長時代

2005年に民青同盟の専従職員にならないかと声をかけられて決意。県委員長として活動することになりました。最初に取り組んだことは核兵器廃絶の取り組みです。NPT再検討会議に青年の代表として送り出してもらうにあたって、仲間たちと1000筆を超える署名を集め国連に届けました。さまざまな国の人が行き交うニューヨークの街角で「サインプリーズ」と署名をお願いすると、趣旨文をじっくりと読んで署名をしてくれる人が何人もいました。核兵器廃絶は世界共通の願いだということ、みんなの力で核兵器はなくすことができると確信になりました。

青年の雇用問題にも取り組みました。当時は派遣切りの風が吹き荒れ、福島でも路上で寝泊まりする青年にも出会いました。街頭で出会った派遣で働く青年と一緒に労働局に行き、直接雇用が実現したこともありました。この状況を何とかしなくてはならないと、当時若者の間で「自分たちの働き方と同じだ」と小林多喜二の小説「蟹工船」が話題になっていたことから、「大量解雇・雇い止めから雇用とくらしをまもる」署名を「カニコー署名」と呼んで取り組み、県議会に提出。街頭で出会った青年たちの声を県議会議長との懇談でぶつけました。請願は全会一致で採択され、県は100人を直接雇用することを決めました。

民青県委員長時代に県議会議長に派遣切りで申し入れ
民青県委員長時代に
県議会議長に派遣切りで申し入れ

民青県委員長時代青年のよき相談相手に
民青県委員長時代
青年のよき相談相手に

2005年 NPT(核不拡散条約)再検討会議の要請団の一員としてニューヨークへ
2005年 NPT(核不拡散条約)再検討会議の
要請団の一員としてニューヨークへ


原発被災地福島の思いを国会へ 候補者時代

「青年を苦しめるおおもとの政治を変えなくては」という思いで2010年参議院福島選挙区から立候補。その後2013年に同じく参議院福島選挙区、2012年、2014年には比例東北ブロックから立候補しました。

2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故があり、被災者救援対策本部長として現場に足を運び、国と東京電力に原発ゼロと全面賠償を求めて福島のみなさんと声をあげてきました。避難地域の女性たちとの懇談会で「一時帰宅で帰った我が家は、動物が住み着いた跡があってとても帰れる状況じゃなかった。あんなに帰りたいと思っていた気持ちがどこかに行ってしまった」と言われたとき言葉が出てこず、ようやく絞り出した言葉は「政治を変えます」という一言でした。福島の声をなんとしても国会に届けたいと思い活動してきました。

2015年に参議院比例代表予定候補となり、主な活動地域である北海道・東北をあるき、戦争も原発もない社会を、国民の声がいきる新しい社会をと訴えてきました。

2010初立候補
2010初立候補

原発事故をめぐる東京電力との交渉 高橋千鶴子衆院議員、福島復興共同センターのみなさんと
原発事故をめぐる東京電力との交渉
高橋千鶴子衆院議員、
福島復興共同センターのみなさんと

原発事故で避難されている方の住む仮設住宅へ。青年ボランティアのみなさんと要望の聞き取り。
原発事故で避難されている方の住む仮設住宅へ
青年ボランティアのみなさんと要望の聞き取り



© 2016 Iwabuchi Tomo