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○参考人(小林雅之君) 本日は、このような機会を与えていただきまして、誠にありがとうございます。
私、衆議院の予算委員会並びに文部科学委員会でも、給付型奨学金の創設に関連いたしまして意見を述べさせていただく機会がありました。給付型奨学金については、長らく創設が日本ではできなかったんですけど、この度初めてできることになりまして、非常にこの問題に関わっていた者といたしましては感無量であります。
今日は、その関連で、給付型奨学金をつくる必要性であった格差の現状についてまずお話ししたいと思います。その後に、その格差の要因として幾つか申し述べさせていただきまして、その上で、学生への経済的支援、特に給付型奨学金の必要性について意見を述べたいというふうに思っております。どうぞよろしくお願いいたします。(資料映写)
初めに、これは議員の皆様方には申し上げるまでもないことですが、一応確認しておきたいことは、教育の格差がなぜ問題かということになりますと、やはり教育の機会均等が脅かされるという問題であるからです。これは、日本の場合でいいますと憲法二十六条及び教育基本法の第四条に規定されているとおりであります。
これは、ただ、教育法学の方ではいろんな議論があるわけで、教育の機会均等ということについては必ずしも一義的な理解ができているわけではありません。これは公正に関する価値の概念でありますので、様々な考え方があるということです。
世界的に見ても、国際人権規約というものでこのことが、高等教育の場合、漸進的な無償制ということが言われているわけでありまして、日本はこの規約を二〇一二年にようやく批准したというようなことがございます。
ここでは、結果として進学の機会が平等になっていることをもって教育の機会均等というふうに考えます。逆に言いますと、格差があることが機会の均等が実現されていないという状況であるというふうに捉えたいというふうに思っております。
高等教育の場合に関して申しますと、なぜこれが重要かということは、もう一つの問題として、教育の格差の解消というのが社会経済的な格差の解消の前提条件として非常に重要になっているからであります。教育の機会が平等になっていなければ、社会経済的な格差の解消も難しいということがあります。ただ、逆に、社会経済的な格差があるために教育の格差が平等にならないという、こういう循環的な構造になっているということがあるわけです。
その中でも、特に重要な要因として四つ考えられると思います。まず、何といっても第一に学力の問題、これが一番大きな要因であります。それから経済力、これは家計の経済力ですね。それから学習環境、それから教育に対する意欲、アスピレーションというこの四つが非常に重要なものと考えられます。
私がなぜその奨学金の問題に関心を持っているかと申しますと、学力が最大の要因であることは間違いないんですが、学力の格差というのはなかなか解消するのが短期間では難しい、それに対して、経済的な問題というのは奨学金などによって政策的に非常に効果的に短期間で解消できるという性格を持っているからであります。
高等教育の場合で申しますと、もう一つ重要なことは、この教育の機会均等は人材の有効な活用の条件になっているということです。意欲も能力もある者が機会を奪われるということは、その個人にとっても損失でありますけれど、社会全体としてもやはり大きな損失になっているという、そういうことがあると思います。ですから、高等教育政策でも最も重要な理念であるはずです。しかし、現実には具体的な政策は遺憾ながら乏しいと言わざるを得ません。
日本の場合、特に問題になるのは地域間の格差でありまして、これは次にお示ししますが、非常に大きな地域間格差がございます。ただ、このために文部科学省は戦後一貫して非常に努力を重ねてきたということも事実でありまして、にもかかわらずなかなか地域間の格差が解消していない。今度の中央教育審議会でもこのことは大きなテーマになっております。それから、もう一つは育英奨学政策であります。こうした努力にもかかわらず、現実には様々な格差があるわけであります。
初めに、その地域間の格差という点を取り上げたいと思いますが、これは都道府県別の進学率の格差です。御覧になっていただければお分かりのように、最も高い東京と低い鹿児島県では四〇%近い差があるわけですね。非常に大きな格差がございます。先ほど申しましたけど、一九七五年から十五年間は高等教育計画というもので大都市圏における大学の新増設を抑制したために、格差は一旦は縮小しました。しかし、その後こういった政策が取られておりませんので、格差が拡大しているというのが現状です。
次に、男女別の格差ですけれど、これは御存じのとおり、紫のラインですが、女子の四年制大学への進学率が著しく向上しておりまして、その分、短期大学への進学率が減少しております。水色のラインです。これを合わせますと実は女子の方が現在進学率は高いんですけれど、二年と四年という差がありますので、これをどう評価するということは難しいところであります。
今日最も申し上げたいのは所得階層別の格差でありまして、左側は私たちが二〇〇六年に行った調査でありまして、私立大学の進学率について非常に大きな所得階層別の格差があるということが取り上げられて、しばしばこれはいろいろな機会に話題にされておりますが、私が強調したいのはこの赤いラインです。赤いラインは国公立大学でありまして、国公立大学に関しては比較的どの階層にも平等に開かれている、つまり国立大学あるいは公立大学のミッションは全ての国民に教育の機会を提供することでありますから、その役割を果たしていたと二〇〇六年の段階では言えたわけです。
ところが、格差が拡大する中で、私たちが二〇一二年から調査を続けているんですが、これ最新の結果をお持ちしましたが、この赤いラインが高所得層の方に多くなっている、つまり低所得層の方の進学がそれだけ難しくなってきたという状況があるわけです。つまり、格差が生じているということであります。
もう一つ問題だと思っておりますのは、二〇〇六年の段階では、一番上の赤いラインですけれど、中学の成績がいい場合には大学の進学率は所得の低い層でもかなり高かったわけであります。余り差が見られません。これは、子供が成績が良ければ当然進学したいと思うでしょうし、家庭の方でも進学を支えたいということで進学できていたわけです。私はこれを無理する家計と名付けたんですけれど、そういう形で何とか日本は進学の格差というものがそれほど生じていなかった。
ところが、二〇一六年の調査になりますと、やはりその所得の低い層の進学というものが、たとえ成績が良くても難しくなってきている、こういう問題があるわけです。こういったことが格差の非常に大きな問題だろうというふうに思っております。
それから次に、この調査から潜在的な進学者数、つまり進学したいと思っているのですけれど進学できなかった者の数というものを推計しますと、大体五、六万人、年間いるということが分かってまいりました。四回調査やっていますが、余り大きな差は見られませんので、毎年これだけの人が進学を望みながら進学できていない。給付型奨学金がもらえたら進学したいという方もかなりの数が、同じくらいの数がいらっしゃるということであります。
経済的に困難でかつ給付型奨学金があれば進学したいという人が大体年間二万人程度いるというふうに考えられます。この最新の調査、まだこの調査については精査ができておりませんが、最新のデータということでお持ちいたしましたが、この数字が三万人程度と増えております。これは給付型奨学金がちょうどできるという議論がされていたときでありますので、そのことも影響があったのではないかというふうに考えております。いずれにいたしましても、これだけの数の人が進学できていないということが日本の現状です。
次に、その大きな進学格差の原因といたしまして教育費の負担問題を取り上げたいと思います。
誰が負担するかということは、結局は公的な負担でありますか、それとも私的な負担。私的な負担の場合には家計負担と民間の負担。民間の負担というのはどこの国もそれほど大きくありませんので、家計負担ということになります。家計負担の場合にも、厳密に言えば、親、保護者が負担する場合と学生本人が負担する場合というふうに分けることができます。したがって、主に負担はこの三つに分けることができます。
なぜ公的負担しなければいけないのかということなんですけれど、これは先ほど申しました教育の機会の均等の実現ということがありますし、もう一つ大きな問題としては、先ほども申しましたが、社会、経済全体的な効果ということでありまして、これは特に外部効果という言い方をされます。これは、なかなか数量的に把握することが難しい面もありまして余り十分な研究が進められていないんですけれど、教育を受けることによって社会全体が非常に効果があるということを、そこにありますように、健康の増進、犯罪の減少、労働移動、ミスマッチの緩和、あるいは少子化の緩和というようなことで言われているわけであります。
先ほど三つ負担感があると申しましたが、これは国によってかなり考え方が違います。
公的負担という考え方でやっている国は、スウェーデンとか北欧諸国、あるいはフランス、ドイツというような国でありまして、大学の授業料はほとんど無償あるいは非常に少額の登録料を取るというような形式です。教育は社会が支えるという理念の下でやっているということであります。二月にフランスの国民教育省に調査に行ってきましたけれど、教育は社会正義の実現のためだということをはっきり申されておりました。そういった考え方で公的負担をしているということであります。スウェーデンで申しますと、私立大学も含めて一切授業料は取っておりません。
それから、それに対しまして、日本とか韓国というようなところで強いのが親負担主義でありまして、これは教育は家族の責任であるという考え方が非常に強いわけです。先ほど申しましたように、こういった考え方が日本の進学率を支えてきたということも言えるわけでありますけれど、非常に無理が来ているというふうに考えられます。
それに対しまして、学生本人が負担するというのは個人主義的な考え方でありまして、これはイギリス、オーストラリア、アメリカというようなアングロサクソン系の国で非常に強い考え方でありまして、もちろん学生本人がそんなに負担できるわけではありませんので、卒業してから返済する、ローンを借りるというような形式を取る、あるいはイギリスとかオーストラリアのように全て授業料はもう後払い、一切在学中は支払わないという形式を取っているような国もあります。
世界的に見ますと、公的負担がなかなか厳しくなってきておりますので、北欧諸国とかフランス、ドイツなどを除くと次第に今、本人負担主義に移っているというのが大きな世界的な趨勢であるかとは思います。
その中でも日本は特に親負担、家計負担が重い国でありまして、チリに次いで、この図の二番目ですけれど、親の負担、家計負担が五割を超えているような状況になっているということであります。それに続きまして先ほど申しましたアングロサクソン系の国、図の右の家計負担が全くないというのが北欧諸国というふうに、非常に極端に違うわけであります。
しばしば問題にされるのは家計の負担ということなんですけれど、これが一番重いのは就学前教育と高等教育なわけでありまして、どちらが優先順位が高いかということはよく聞かれるわけでありますけれど、教育の効果といたしましては就学前教育の方が高いと思います。ただし、日本の場合、就学前教育がかなり普及しておりますので、どのように支援していくかということは検討する余地はあるかと思います。
逆に、高等教育の場合には、まだ全ての人が進学しているわけではありませんけれど、この図にありますように家計負担が非常に重い。特に、子供が二人以上になりますと非常に重いことになりますので、その辺りのことを議論をしていただければというふうに思います。
それから、もう一つ付け加えておきたいことは、今、学費とそれから生活費が中心になって議論が進んでいると思いますけれど、実は経済学で申します放棄所得という考え方が非常に重要だということです。
放棄所得というのはこの緑の部分ですが、これは高校を卒業してからすぐに働いた人が得られる賃金です。大体二百数十万円です。四年間大学に行くということはこの所得を失っているというふうに考えられるわけでありまして、この金額が非常に大きい。ですから、理想的なことを申し上げれば、教育が無償になってもそれだけでは進学することができない人たちがいます。平たく言えば、高校を出てすぐ働かなければいけないような境遇にある人たちは、たとえ授業料が無償であってもそれだけでは進学はできないということであります。
これは授業料がこれだけ上がってきたということで、これだけ上がっているものはほかにはそれほどないと思います。ただ、この十数年は国立大学の場合安定しております。私立の方も同じように上がってきているということですね。
こういった高額の学費をどのように負担しているかということなんですけれど、今回の調査で非常に驚いたのは、図の緑色の部分ですけれど、これは預貯金の取崩しです。前回の調査でもこれは非常に大きな割合を占めていたんですけれど、日本の場合、入学金を含めて非常に大きなお金が入学時に掛かります。ですから、どうしても学資保険とか預貯金をしていかないと大学に進学することは難しいというような状況になっているということであります。
これは、貯蓄率が子供が大学生の場合にマイナスになっているということですね。
それから、負担割合を今度は生活費で見ると、圧倒的に親からの支援、それから奨学金、貸与奨学金ですが、それが多くなっているということです。
こうした構造に支えられて日本の進学ということはできていたわけですけれど、家計の負担感というのはどんどん強くなっております。所得が減っている中で学費の負担が重くなっているということで、こうした無理が続かないのではないかということが懸念されるわけであります。
以上が格差の現状とその要因なんですけれど、それに対してようやく学生支援の対策が取られてきたということであります。
いろんな方法がございます。学費の無償、低授業料も一つですし、給付奨学金というような在り方もあります。ただ、ここで強調しておきたいのは、日本の奨学金というのは貸与奨学金で、実質的には学生ローンでありますので、これが非常に急速に拡大してきたわけですが、これだけでは問題は片付かないということであります。
これは国際的にも問題になっておりまして、ローンが非常に返済が厳しくなっておりますので、ローンの拡大だけでは問題解決にはならない。ローンを回避すると。つまり、奨学金は教育の機会を拡大するためのものでありますけれど、それが将来の返済の負担を恐れて借りないというようなことが起きているというのが現状です。
これは私たちの調査ですが、図の一番左が所得の低い人ほどやはり将来の返済が不安であるということを申し上げているわけですね。それから、水色の部分ですけれど、これはよく知らなかった。これも大きな問題かと思いますけれど、よく知らないので借りることをためらっているというような現状があるかと思います。
時間が来ましたのであとは簡単に申し上げますけれど、以上のようなことがその新しい給付型制度の創設の背景にあるかと思います。
それから、もう一つ、制度として所得連動型というものを入れております。これは今申しましたようなローンの負担を軽減させるための措置でありまして、所得に応じた返済をするということで、所得が低い間は非常に低額の返還で済むということでありまして、国際的にも非常に優れた制度だというふうに言われておりまして、日本もこの制度を、無利子奨学金だけですけれど、導入したということであります。
各国、どのような状況になっているかということはここに、表に示しております。
日本の例、御存じだと思いますけれど、こういった形で新しい制度が入っております。ただ、一言申し上げたいのは、非常に、どちらか、今までの従来方式、定額型と選択制になりましたので、この選択の難しさという新しい問題が起きております。私は、この問題が将来のトラブルにつながることを非常に恐れておりまして、そのためには、こういった奨学金の返済の仕方について十分な情報の周知、ガイダンスということが必要だというふうに考えております。
あともう一つ、済みません、時間が超過しておりますが、申し上げたいのは、授業料減免という制度もありますので、こういったことを知らない方が非常に大きなわけでありまして、現在三百三十億以上が国立大学には減免として補助がなされております。ですから、こういったことを併せて情報を周知していることが重要であるというふうに考えております。
済みません。時間を超過して恐縮でしたが、私の意見は以上でございます。どうもありがとうございました。
○会長(川田龍平君) ありがとうございました。
次に、日比野参考人にお願いいたします。日比野参考人。
○参考人(日比野克彦君) 日比野です。よろしくお願いいたします。
私の方は、今日、幾つか画像を用意させていただきました。あらゆる立場の人々が参画できる社会の構築、文化芸術を通した社会参加の在り方ということで話させていただきます。(資料映写)
私は、現在、東京藝大美術学部で学部長をしながら作家活動もしております。元々は、私はデザインを勉強して、社会の中で商業的なスペースでポスターを作ったり商品開発したりというのは二十代の頃やっておりました。その頃に同時に、個展で自分の作品もギャラリーで展示したりとか、海外で展示したりしていたんですけれども、時代とともにアートの、そしてデザインの社会の中での役割が随分変わってきています。
ちょっと一番最初に、皆様と情報を共有というかイメージ共有するために、いわゆる美術というと、このような大画、名作が美術館に展示してあり、それを鑑賞しに行くというのが美術の一番の我々が持っているイメージかと思います。美術館に行くということが美術と接すること、日頃見られないような、例えばヨーロッパでのあの名画、名品が上野の美術館にやってくる、そしてそれを見に行こう、絵画と接する、名品と接することによって美術の知識を深めるというのが一番の王道の美術かと思います。
でも、これが少しずつまた枠が広がってきました。いわゆる美術館の中だけで美術と接するのではなく、館、美術館の外に飛び出していこうという動きが二〇〇〇年辺りから日本では見られました。
それで、次の画像になります。これは新潟の十日町にある大地の芸術祭という芸術祭です。二〇〇〇年から始まりました。それまで、美術館の中で日常とは違った価値観に接するということから、今度は、大地の持っている場の力、これは新潟の山の中の風景、そこにも美があるのではないか、そこにも日常とは異なる価値観に気付くことがあるのではないかということで、美術館の中だけで名画、名品に接することだけがアートではなくて、こういう地域の持っている場の力、自然の力に足を我々が運んでいって、そこでアート作品にも接する。
これ、フレームの中にカーテンがひらひらひらと動いていますけれども、いわゆるちょっと前の絵ですと、額縁の中に絵が飾ってあって、そこに向こうの風景、過去の王様の功績であったりとか行ったことがない風景というのが絵画で描かれているわけですけれども、この大地の芸術祭では、フレームだけがあって、そこに自然の風が吹いて、そしてその日の天気、季節折々の風景を見る、一つこのフレームがアート作品、そしてそれを構成しているのが大地の自然という、そしてそれを、イメージを編集するのが鑑賞者の頭の中で編集されていって、自分のアートがそこに生まれてきます。
こういうのが二〇〇〇年以降、日本各地で行われてきました。瀬戸内国際芸術祭ですとか、もう今では日本中、横浜も愛知もそして大分などなども、各地域、自治体が一緒になってアートを取り入れてやっています。
これの背景には、やはり限界集落とか地域おこしとか町おこし、過疎化になった村に人をどうやって呼んだらいいのかというものが背景にはあります。そういうところにアーティストを招いて、誰も見向きもしなくなった廃屋、廃校、誰も来なくなった地域にアーティストが入り込んで、いや、ここにはこんなすてきな風景があるじゃないか、この廃屋も見方によってはなかなかいいものになるよというところで、アーティストが既存の価値観とは違う価値観をそこに見出していく。アーティストのそれは特性です。いかに異なるものを見付けていくか、既存の価値観を変えていくかというのがアートの特性であり、アーティストの職能であります。
これを使って、この職能、アートの特性を使って、次はこの空間、場、いわゆる地域、マイノリティーな地域から次に展開しようとするのが今日ちょっと話していきたいポイントになります。
ちょっと表にまとめてみました。一番左、鑑賞場所、鑑賞形態、内容、効果、実際の主なプロジェクトとありますけれども、一番左の列、それ以前というのが一番最初にお見せした美術館での鑑賞方法になります。場所は美術館、鑑賞形態としては見る、内容としては作品が展示されてあるということですね。効果としては美術の知識を深めるということになります。
そして、二枚目の写真でお見せした近年、二〇〇〇年代から始まった地域アート。これは、鑑賞場所としては各地域にあるマイノリティーな場所、いわゆる山の中とか瀬戸内の島々とかいう場所になります。余り人が行かなくなって、人口も少なくなり、学校は廃校になり、病院もなくなり、教育、医療の施設がなくなっていったというマイノリティーの地域が場所になります。そして、鑑賞方法としては、見るだけではなく、そこで五感を全て使って体感する、そして参加するという、地域の人たちと一緒になって参加するという鑑賞形態にもなっております。内容としては、アーティストがその土地へ赴き、地域の人たちと地域らしさを発見し、そして発信していくということになります。そして、効果としては、地域を活性化していくという効果が見られます。主なプロジェクトとしては、今お見せした大地の芸術祭、そして瀬戸内国際芸術祭などがあります。
そして、近年、近年というかもっと、二〇一五年以降、これからお見せするTURNというプロジェクトのものなんですけれども、この表でいくと、そのマイノリティーの地域ではなく、今度はマイノリティーのコミュニティー、人々を対象にした展開に移行しようとしております。鑑賞形態としては、地域で行われているアートと同じく、五感を駆使して見るだけではなく一緒になって参加するもの。そして、内容としては、今述べたことですね、地域のマイノリティーから人のマイノリティーへ移行していきます。アーティストがその人々と交流して展開し、マイノリティーの持っている魅力を多様な社会参加にして展開していこうと、多様性を認め合うアートのルールを適用して活用して展開していこうとしております。その効果としては、今社会の中で求められている多様性を広める効果がここにはあると考えております。
そして、TURNというものをちょっと説明させていただきます。
このTURNというものは、二〇一四年から始まりました。まずは、アートの中で同じような志を持っている者たちが集まって、いかにしてその地域というものから今度は人というものに移行していこうかということをまずは障害者アートのプログラムとして考え始めたのが二〇一四年です。そのような考え方が、二〇一五年から、オリンピック・パラリンピックの文化プログラムのリーディングプログラムとして東京都の支援を受けて動くようになりました。TURNが目指すところは、障害者、健常者という関わりではなく、その人らしさというものを尊重することによって個の出会いを生み出していくアートプロジェクトになります。
これまでの施設の行い方というのは、福祉施設で社会に復帰できるように、そして社会の中の機能にちゃんと自分が行えるように職業訓練であったり、就労施設でいわゆる自分が行えないことを、そこを補っていくというものが福祉の考え方だったかと思うんですけれども、TURNが行おうとしているものは、逆に、福祉施設、障害を持った方々からアーティストが学び取っていく。先ほどの大地の芸術祭等でいくと、例えば田畑、何もないよね、この田舎は、この地域はというところから、アーティストが、いや、そこにはすばらしいものがあるんだというものを見付け出していくという、そういうまなざしでマイノリティーのコミュニティーの中にアーティストが滞在し交流しながらそこにいる人のらしさを見付けていく、それを社会の中に発信していくというのがTURNの目指すところです。
現在TURNが行っているのは、交流という、施設にアーティストが入り込んで交流していくもの、そしてそこで得たもの、生まれたものをフェスとして発表していく、社会の中で発表していくという二つの柱があります。
まずは、交流の様子をちょっと御紹介いたします。
これは、東京都町田にあるクラフト工房LaManoという就労施設になります。この就労施設では藍染め、徳島の藍を使って染物をしております。今の季節だとこいのぼりがすごく今は生産中で、とても人気の商品になっております。そこに、今この右手に写っている五十嵐さんというアーティストが交流を始めました。今でも交流しております。そこに行って、まずは一緒になって染物の作業を行っていきます。その中からアーティストが、このLaManoの一人一人の個性であったり、障害者じゃないと行えないような染物の作業というものを見付けていきます。
そしてまた、別な交流場所、これは静岡の浜松のクリエイティブサポートレッツという施設です。そこに中崎君というアーティストが交流しております。本当、ここのレッツというのはとても全国でも珍しい施設で、今日はちょっと十分に話す時間はないんですけれども、就労施設なんですけれども、いわゆる、さっきLaManoであったような、染物を染めているというようなそういう生産的なものではなくて、一人一人の障害者の個性、例えば、すぐ人が来ると声を掛けたくなる利用者の人、すごくゆっくり階段を上る人、それをその人の作業として認めているというとても特徴のある施設になっております。そんなところにアーティストが滞在したりしております。
そして、このように幾つか、これは東京都にあるハーモニーというところにジェームス・ジャックというカナダ人のアーティストが写真をテーマとして交流したりしております。
そして、それを集めたのがTURNフェスというので、つい先月、東京都美術館で二回目のTURNフェスを行いました。一回目は、ちょうど一年前の三月に同じく東京都美術館で行いました。そこに、次の写真、先ほどのLaManoで行った五十嵐君の作業の様子です。その作業を来館者、美術館に来た人たちに見てもらおうということで、より多くの人に参加できる織物の装置を工夫して、そして利用者、LaManoの利用者の人たち、そして来館した一般の人たちと一緒に共同して行えるようなワークショップを開発しました。
そのほかにも、これはハーモニーという先ほどの施設、そこに、そこの方々と一緒に今これは来館者が絵を描いているところです。もう音を聞きながら絵を描くとか、ちょっと急ぎますが、その次、これは大田区の障がい者総合サポートセンターですけれども、そこに、藝大の音楽学部を卒業した、作曲を卒業した角銅さんが障害者の人たちと一緒に音楽を作りました。その音楽を、枕の中にスピーカーが仕込んであって、障害者の人たちはすぐ疲れるんですね。疲れるとすぐ横になる。これ、美術館の中は大体横になっちゃいけないんですけれども、ファーを作って、寝ていいよと。枕に耳を近づけると自分たちが作曲した音が流れている。来館者も一般の人たちも一緒になって横になって寝ているという、そういう空間になります。
ちょっと急ぎます。もうこういう幾つかの障害者の特性を生かしたものをアーティストがそれを増幅したり、より特徴が見えるような細工をしたりして、美術館の中で展開していきました。
このような国内の取組と、もう一つ、昨年、リオのオリンピックのときに、このTURNというのは東京都のリーディングプロジェクトとして行っていますので、東京都、オリンピックに向かってこのような取組をしていますよという紹介も兼ねてブラジルでも展開していきました。
ブラジルでは、四人のアーティストが四つの福祉施設で展開しました。これは、PIPAという自閉症の子たちの障害者施設に、江戸の組みひも、さっき五十嵐君というLaManoの染色のアーティストが、今度は日本の文化ももう一個、そこ、コンテンツとして取り入れて、江戸の組みひもとアーティストとそして自閉症の障害者の施設の人たちと一緒になって物を作っていく。これは、ジュン・ナカオという日系三世のアーティストが憩の園という日系一世の人たちの高齢者施設で行った制作になります。ブラジルに伝わるセスタリーアという籠編みの技術を持ち込んで、その施設の人たちと物を作っていきました。これ、江戸つまみを高齢者施設に、そして東北のきりこですね、東北の三陸に伝わっているきりこ、神社の奉納するきりこをモンチアズールという障害者施設の人たちと一緒に作っていきました。
これを集めて、ブラジル・リオでTURN・イン・ブラジルというフェスを行っていきました。施設で行っていたものを美術館の中でワークショップ形式で発表して、来場者とともに制作をしていく、ブラジルの人たちが日本の文化を知る、ブラジルの障害者施設のことを知るという交流の場になっていきました。これがブラジルでの様子になります。
そして、このようなアーティストの人材を育成するプログラムが今年の春から東京藝術大学で始めました。DOOR、ドアというプログラムになります。DoA、ダイバーシティー・オン・ジ・アーツ・プロジェクト、通称ドア、DoAを略してドアという言い方をしております。芸術と福祉のコラボレーションにより、社会的包摂に寄与する人材の育成、輩出、多様な人々が共生できる社会環境の整備を目指すというものになります。これが今、東京藝大が行おうとしているところで、社会人が今年の春から五十名ほど藝大に来て、そして学生も二十名ほど入って、先ほどのTURNで活躍できるような人材を育成しようとしております。
いわゆる福祉施設というものが、先ほど、一番最初の美術館の写真、そして二枚目の大地の芸術祭という自然の中での様子、そういう、価値を変えていく、日常じゃない、日常にない価値を気付かせてくれるというところが美術館でありました。それが大地の芸術祭のような自然の中でありました。今度は、日常の中にない新しい価値観を発見する場所として、いわゆるマイノリティーの人たちが集まる福祉のような施設にアーティストが入り込んで、福祉施設を文化施設に読み替えていくというような試みを今しようとしております。そうすることによって、福祉施設に通所している方々を表現者として見立てていく、日常の中に多様性があることに気付かせてくれる文化施設として生かしていくということをしようとしております。
これがちょっと最後の写真に、最後の二枚になりますけれども、これは、きょうされんというリサイクル洗びんセンターになります。そこの作業所に、TURNフェスにここも参加しているんですけれども、彼らが、洗びんセンターで働いている人たちをカメラマンが撮って、それをTURNフェスに展示したんですけれども、その後、その写真を洗びんセンターの作業場に、一画に展示しています。reTurnfesということで、洗びんセンターの人たちが自分の作業所を展示スペースにしました。
このようにして今後は、いわゆるTURNフェスというのを美術館でやるのではなく、各地域にある福祉施設とかこのような就労施設をTURNのプログラムとして、そこに彼らの作品、アーティストが一緒に入って作っていった作品であったり、ワークショップを行う拠点とすることによって、地域の人たちが、日頃は余り縁のなかった福祉施設とかこういう就労センターにも、美術館に行くように、同じように、違う価値観、多様性な価値観と出会う場として展開していくような試みをこれから行っていこうと思っております。
済みません、ちょっと時間が延びました。どうもありがとうございました。
○会長(川田龍平君) ありがとうございました。
次に、野村参考人にお願いいたします。野村参考人。
○参考人(野村一路君) 本日は、国民生活・経済に関する調査会に、スポーツを通じた社会参加ということで、スポーツを取り上げていただいたことに非常に感謝を申し上げます。
どうしても、これまでスポーツというものの価値というものが国民の間でやはりそれほど重きを置かれていなかったというようなことがあったわけですけれども、二〇二〇のこともあり、スポーツというものが非常に重要なものであるという認識が広まっていくということに対して感謝を申し上げる次第です。(資料映写)
本日は、障害者スポーツやアダプテッドスポーツの現状と課題というテーマでお話をいたしますので、最初に、障害者スポーツというものはどういうふうに考えるのか、アダプテッドスポーツをどういうふうに考えるのかという、少し言葉の共通理解をするために簡単に御説明を申し上げたいのですが、まず、障害者スポーツというものをどう考えるかということなんですが、一般の方々は、障害者スポーツといえば、ああ、ああいう、あの、ほら、車椅子を使ってバスケットボールをやっているとか、テレビに出てくるボッチャだとかというふうに、そういうものが障害者スポーツだというふうに認識をされておられる方が多いわけです。しかしながら、障害者スポーツというある特定の領域あるいはカテゴリー、そういったものはないというのが私の立場でございます。
というのは、じゃ、高齢者スポーツあるいは女性スポーツといって何がしかの方々を特定のスポーツに当てはめるということはあり得ないわけで、全ての方が全てのスポーツができるというのが、これがスポーツの本質でありますので、障害者スポーツというのは、障害のある方がスポーツをするというのではなくて、スポーツをする方々の中に何らかの障害のある方々がいらっしゃるというふうに考えるというのが大前提だろうというふうに考えております。この辺の問題は後で格差という問題にもつながってくる問題ですので、後ほどまた御説明をしたいと思います。
そして、アダプテッドスポーツということに関しましてはどう考えるかということなのですけれども、アダプテッドスポーツというのは、簡単に申しますと、障害のある方だけの問題ではなくて、幼児から高齢者、あるいは体力の低い方々、それぞれの方に合ったスポーツ活動をどのように提供するかということを考えるという考え方でございます。ですので、カバーする範囲としては、障害者スポーツというよりもアダプテッドスポーツの方が領域としては広いという考え方で、こちらに基づいて、何らかの障害のある方にどのようにスポーツを提供し、そしてスポーツを通じて社会参加をするかということを考えていくというふうにお考えいただければよろしいかというふうに思います。
次のページですけれども、何らかの障害のある人のスポーツを通じた社会参加を考える背景といたしましては、これはもうよく委員の皆様御存じのように、何らかの障害のある方が、昨年度の白書の統計の推計値ですけれども八百六十万人と、もう無視ができない、マイノリティーではないという、そういう数になってきております。
この数は、今後ますます増えるという要因はあれど、減るという要因は少ないわけで、そうなりますと、ますますこの方々がどのように社会に参加をしていくかということは非常に重要であるということが前提条件としてありますし、さらには、自立した生活を求めるならば、その方々に運動、体を動かすということを通じて、より健康な文化的な生活を営むということをどのような仕組みでサポートしていくかということは非常に重要だということになろうかと思います。
続きまして、現状なんですけれども、これはスポーツ実施率で見ますと明らかなのですが、何らかの障害のある方の週一回以上のスポーツ実施率というのは一九・二%という数字が出ております。障害のない方の四二・五%に比べて明らかに低い、週三回以上になっても明らかに低いということで、実施率が低いということで、違いがもう歴然としているということがございます。
このような状況をつくり出す要因というものはたくさんあるのですけれども、本日は時間の関係で幾つかのトピックスに限ってお話をさせていただきたいと思うんですけれども、やはりスポーツを実施するかどうかということを考える上で非常に重要なのは、幼少時期に運動やスポーツ活動を日常の生活でしっかりとやっていくかどうかというところが非常に大きな要因になっております。特に、脳の発達段階、幼児期から小学校高学年まで、この時期に運動やスポーツを好むという状況にするかしないかがその後の運動、スポーツへの参加ということに大きな影響を与えているということがございます。そうなりますと、何らかの障害のある幼児児童にとりまして、一つは特別支援学校での体育あるいはスポーツの状況というのは非常に重要な要素を占めております。
そこで、調査の結果を見ますと、今の現状の特別支援教育を必要とする幼児児童生徒たちは、いわゆる一般校、一般級に通学、通級する割合が増えているのですけれども、それの結果としまして、特別支援学校は非常に重度化しております。重度化をしているわけですから非常に一人一人の個別対応が必要になっているわけですが、残念ながら、教員の中で保健体育の免許保持者の割合が非常に少ないということ、かつ保健体育の教員免許を持っている中で特別支援学校の教員の免許の持っている割合が半数と非常に少ないということ、よって、体育の授業がきっちりと行われていないという現状がございます。それから、課外活動としての部活動も十分に行われていないという、そういう現状がございます。つまり、原体験として運動やスポーツに接する機会が制限されているというところから、長じて運動やスポーツに接するということが少なくなっているということがやはり問題として挙げられるというふうに考えております。
次のページでございますが、それではなぜ特別支援学校で体育やスポーツ活動がそのようにきちっとできないのかということなんですけれども、まず制度的な問題からいいますと、保健体育科の教員免許を取得するカリキュラムの中に障害のある幼児児童生徒に対する指導科目が必修化されておりません。よって、保健体育の免許は持っていても、何らかの障害のある子供たちに対して適切な指導ができる教員が少ないということがあります。特に小学校、小学部というふうに特別支援学校では申しますけれども、小学部では体育の専科教員が配置がされておりませんので、小学校の体育の授業というものが十分に行われていないという問題がございます。
当然、特別支援学校分校、分級では小規模校が多いので、集団でスポーツを行う、あるいは体育の授業を行うということができないということも一つの要因になっていて、社会参加、つまり多くの人と関わるという経験自体も少ないというようなことも挙げられております。また、通学バスというようなものを利用する学校が多いわけですので、どうしても部活動というものができにくいという状況がございます。
それぞれいろいろ事情はあるのですけれども、原体験として、こうした教育の場でも十分な運動やスポーツ体験がされていないというようなことがございます。
一方、地域における障害のある人のスポーツ参加の状況を見ることが大事だと思っております。つまり、学校卒業後、卒後の運動、スポーツの体制を整えるということは非常に重要な課題なわけですけれども、その受皿となるものがどのように準備されているかということを見ますと、一つトピックスで今日挙げましたのは、障がい者スポーツ協会というものが全国都道府県、指定都市に置かれるということが望まれるわけですけれども、残念ながら、今、中核市において、まだこの障がい者スポーツ協会というような体制が整っておりません。あるいは、障害のある方々が使うことができる占有のスポーツ施設が未設置の都道府県、政令市、あるいは市区町村が非常に多く、共有施設であってもなかなか利用できないという、こういった現状があります。つまり、学校の卒後、極端にスポーツの実施率が下がるというような現状がございます。
さて、次のページに参りますが、何らかの障害のある方々がスポーツ・レクリエーション活動を実施する主な目的というものの結果をグラフで示しましたが、健康の維持・増進、あるいは気分転換・ストレス解消といった、これはスポーツに共通する個人の健康を維持するといったようなところは同じ傾向なのですけれども、御注目いただきたいのは下から二番目、その他の上ですけれども、健常者との交流というのが〇・八%と極めて低くなっております。
スポーツを通じた社会参加ということを考えるならば、スポーツを通じて障害あるなしにかかわらず地域におけるあらゆる人との関わりというものを持つ必要があるにもかかわらず、残念ながら、こうしたスポーツを通じて障害のない方との交流というのが極めて低いという、こういう結果を見ますと、やはりスポーツを通じた社会参加というものが十分にできていないという現状を示す一つのデータであろうかと思います。
あるいは、右側にありますこの活動を行う相手を見ていただきたいのですけれども、一人でやるというのが最も多く、その次に家族でやるという、極めて限られた人、あるいは仲間とやるというのではなくて一人でやるというのが多いというのが現状としてございます。友人というのが第三位に上がっておりますけれども、ここは少し分析を必要としますが、同じような障害種別あるいは障害の程度、こうした方々は仲間としてクラブをつくったりということは可能なのですけれども、この仲間というのがどうもそういうところが多いということが推測されます。
そして、一番注目をしなければならないのは、この項目の中に、地域のスポーツの愛好者、つまり地域で何らかのスポーツを行っている方々と一緒にやるという、そういう相手という項目自体が立てられていない。つまり、そういう事例が少ないということになります。よって、スポーツを通じた社会参加というのは非常に重要だという認識は、これはどなたが考えてもそうなのですが、実態としてはそれができていないということが言えます。
もう一つ、それを示すグラフを御覧いただきたいと思います。障害のある方々にとってスポーツ・レクリエーション活動を実施するためのバリア、障壁があるかといいますと、一番下に特にないというのが三〇%があるのですが、では、七割はやはりあるというふうに感じているわけです。
その障壁の一番トップが体力がない、特に病弱な方あるいは重度重複障害のある方にとっては、この体力がないということは答えとして出てくるということはあり得ることなのですが、ですから、なお一層、自立して社会人として社会に参加をしていくためには体力を付けなければいけないわけですので、その方に応じた運動指導、そういうものがされるべきだというふうに逆に言えるわけです。
さらに、金銭的な余裕がないというのが第二位に挙がっております。特に、何らかの障害のある方にとって器具、用具、そうした配慮がされることはこれは必要なわけですけれども、例えば車椅子ユーザーに関していえば、日常の生活用の車椅子は補助がありますけれども、競技用の車椅子となりますとこれ自己負担になります。四十万から六十万ぐらい最低でもいたしますので、こうしたものが準備できるかということになりますと、こうしたものが準備できないがためにスポーツ活動に参加できないという面がございますし、遠隔地に行かなければ同じような仲間が得られないというようなことで、経済的な余裕がないためにスポーツ活動に参加できないというようなことが挙げられるのではないかと思います。
中間にいろいろな項目が挙げられておりますが、やはり、そうした自分自身がやりたいと思うものがない、あるいはその障害に適したスポーツ・レクリエーション活動がないといったような、こういう回答が出てくることは、原体験としてそうした活動に参加したことがないがためにこうした回答が出てくるという要素。それから、人の目が気になるとか、一緒に活動している人の迷惑じゃないかと考えるといったような、こうした心のバリアフリーというものが進んでいないという側面がやはり要因として挙げられると思います。
このようなことを考えますと、やはり現状として、障害のある方でパラリンピックに出るようなトップアスリートは、これは少し別の考え方をしなければならないのですが、圧倒的多数を占める重度な障害のある方あるいは重複障害のある方、そしてこうしたスポーツに接したことがない方が多数を占めている中で、こうした方々のスポーツを通じた社会参加を考えるということは非常に重要な課題であるというふうに考えております。
最後のまとめとしてポイントを挙げておきたいと思っております。
これまでの歴史的な経緯を考えましても、スポーツを通じて障害がある方が社会参加をする場合のバリアとなるものを考えるときに、やはり身体障害のある方が先んじてスポーツを通じてというふうになってまいりましたが、なかなか、知的障害あるいは精神障害、発達障害も入りましたので大分研究も進んでおりますが、身体障害に比べますと、この障害種間の格差というものは、やはりこれは現実にあろうかと思います。
あるいは、障害の程度、軽度であれば自分でスポーツの場に行くということができるわけですけれども、重度、最重度となりますと様々なサポートが必要になって支援も必要になってまいりますが、そこが制度的に不十分であるがためにスポーツに参加できないというような、そういった障害のレベル間の格差というものがあろうかと思います。
あるいは、生活状況による経済的な格差として、やはり就労ができるかできないかということによっても変わります。在宅であるか、施設入所であるかによっても、施設入所であれば施設長の判断によって大きくスポーツ活動ができるかできないかということが左右されますので、就労施設の施設長もそうなんですけれども、そうした認識あるいは理解が得られるかどうかということによっても大きく変わってまいります。
また、同じ障害種の中でも、どうしても障害のレベルが同じ人同士でやろうとする傾向があります。というのは、その方がやりやすいからです。異なった障害種が一緒になってやるとなると、やはりそれなりに難しさが出てまいりますが、地域を見ますと、同じ障害種、同じ障害の程度の人たちが集まってスポーツ活動をやるということは、やはり地域の住民を見ますと、それは簡単なことではありません。様々な人が地域の住民を構成しているわけですので、様々な人たちが一緒にやるという、そういった仕組みづくりがなかなか浸透していないというのが現状でございます。
また、地域による格差というのもございます。先ほども申しましたように、制度的にあるいはハード的にスポーツ施設が障害のある方も十分に使えるかどうかというような、そういうスポーツセンターの有無、あるいはこうしたハード面のみならず、情報あるいは人、特に指導をする人の有無といったような、そういったものの地域による格差というものも非常に大きな要因として挙げられます。
障害者基本法では、第二条の定義に、社会的な障壁があるということを明記されたのが直近の改正でありました。この中で、事物、制度、慣行、そして最後に観念というものが述べられております。つまり、人々の物の考え方、これが心のバリアフリーなのですが、やはり今パラリンピックというものが非常に注目を集めておりますが、これは非常に特別なそうしたトレーニングを積んだ人たちが参加できるものであって、圧倒的多数な、そうした大会に参加できない人たち、あるいは参加しようとしない人たち、そういう人たちをしっかりと、スポーツを通じて社会参加をするということになった場合、こうした風習あるいは慣行というものも大きな要因ですが、特に人々の意識、価値、そうしたもの、観念ですね、これをどのようにこれから変えていくかということが、これからの障害のある方のスポーツを通じた社会参加ということを考える上では重要な要素であるというふうに考える次第であります。今回、このことを材料にして、また質疑の中でこの話題を深めていただければというふうに思います。
発表は以上でございます。ありがとうございました。
○岩渕友君 日本共産党の岩渕友です。
今日は、参考人の皆さん、本当にありがとうございます。
まず初めに、小林参考人にお聞きをいたします。
日本が大学の学費が世界の中でも高い国でありながら給付型奨学金がなかったということで、奨学金が学生ローンになって、平均でも三百万円、大学院に進学をすれば多い方で一千万円もの借金が卒業時には重い負担になってくると。都内の大学に通うある学生さんが毎月九万五千円の有利子の奨学金を借りていて、総額で四百五十六万円、利子も入れると二十年で五百七十万円の返済をしなくてはならないと。こういう実態があるということで、卒業後の返済がどうなるのかということが心配で、何のために大学で学んでいるのか分からなくなると、こういう思いをさせるような実態があるということで、奨学金という名の借金が若者たちの将来にとって足かせとなっている実態があります。
こうした実態も受けて、奨学金制度の抜本的な改革を求める世論と運動が大きく全国的に広がる中で、この給付型奨学金制度がようやく創設されるということにつながったんだというふうに考えます。なんですけれども、創設された制度、先ほども話があったように、もっともっと充実させていく必要があるんだというふうに考えます。
先ほど給付額を増やすべきだという話もあったんですけれども、今、学生の二人に一人が奨学金借りている、という現実を見ると、その給付の対象をもっと広げる必要があるんじゃないかというふうに考えるんですけれども、参考人はそこら辺はどのようにお考えかというのをお聞かせください。
○参考人(小林雅之君) ありがとうございました。
確かに、理想的には当然のことながら給付額それから給付対象を広げるということが重要ですので、それはこれから努力していかなければいけないということがあります。
ただ、つくったことに関わった者として申し上げれば、やはりその財源が非常に乏しい。その中で、先ほど来申し上げていますように、国民の納得、合意が得られなければこの制度というのは拡大することは難しい。そのためには、まず、現在の制度の効果というものを確かめるということが非常に重要だと思っております。議員が御指摘になったような事例というのは私もたくさんいろんな形で聞いておりますし、問題があることは重々承知しておりますけれど、給付型になりますとやはり渡し切りになりますので、税金そのものを投下して使うということになりますので、それだけの効果があるということを示していくということは非常に重要だと思っております。
そこまでは義務化されていないんですけれど、卒業生たちが奨学金をもらって社会に出て活躍していくということを示せば、国民の中でも、いや、もっとこれを広げなきゃいけないという意見というのは大きくなっていくと思いますので、そういったことで効果を検証していくということが、私は研究者ですので、一番そういうことが必要だろうというふうに思っております。
○岩渕友君 ありがとうございます。
もう一問、小林参考人にお聞きしたいんですけれども、私は福島県の出身で、今避難指示が出されている区域の外から避難をしている皆さん、いわゆる自主避難と言われている皆さんの命綱になっている住宅の無償提供が三月末で打ち切られるということがあって、このいわゆる自主避難と言われている皆さんが、母子避難の方が多いということがあったり、家族で避難をしていても、仕事を辞めたことによって、仕事を見付けるまでの間、借金をして生活費を賄っていたとか、そういったいろんな事情があって、非常に経済的に困窮しているという実態があるんです。
こうした中で、あと少しで大学卒業できるという学生さんが学費を払うことができなくて大学を辞めざるを得なくなったと、こうした方がいらっしゃって、その子供たちの未来を断ち切るような事態が起きているということで、こうした実態を考えると、住宅の無償提供の継続が必要だということはあるんですけれども、給付型の奨学金制度が充実していればとか、学費の負担がもっと低ければこの学生さんが卒業を前にして大学を辞める必要はなかったんじゃないかというふうに考えるんですね。
だからこそ、まずこの給付型の奨学金制度というのは非常に重要だというふうに考えますし、同時に、学費の負担減らしていくということが必要だというふうに思うんです。先ほど教育費の話もあって学費のことも触れられているんですけれども、この学費について、参考人、どういうふうに考えるか、改めてお聞かせください。
○参考人(小林雅之君) ありがとうございます。
この授業料が高騰しているというのは日本だけのことではなくて国際的な傾向でありまして、これはなかなか、大学の教育の質を上げようとするとどうしても授業料が高くなるという傾向が見られるわけですね。ですから、奨学金が逆に重要になってくると、そういうことがあります。
授業料を下げるということについて言いますと、現在のところ、大学に行っている人は、私たちの調査でも示しましたように、所得の高い方が多いわけですから、そういう人たちについても補助をするという、そういう問題が発生します。ですから、私自身は、やはり奨学金でそういった低所得の人たちにまず支援をするということが重要だというふうに考えております。
もう一つ、私たちの方で中退に関する調査というのをやっておりまして、これは、今議員が御指摘になりましたような事例というのはたくさん実際にも聞いておりますし、全国調査もやりました。もう少し確かに何か支援があれば卒業できたという方がいらっしゃるということもその調査でかなり分かっております。
ただ、一言申し上げておきたいのは、大学によって全く対応が違うということが今非常に問題でありまして、もう授業料払わないと即除籍というような大学もありますし、学期、学年を越えて授業料の延納を認めるというような大学まであります。できるだけ救済しようという大学まで、本当ばらばらなんですね。そういったことはほとんど知られていないので、この辺りのことも中退の防止という観点から取り組んでいきたいというふうには思っております。
ありがとうございました。
○岩渕友君 ありがとうございます。
次に、日比野参考人にお聞きをするんですけれども、芸術文化が果たす役割、人々の感性とか創造性を育んだりとか多様な価値観をつくるという非常に重要な役割があって、私たちに生きる力であったりとか、本当に心が豊かに暮らしていくという上で欠かすことができない役割を持っているというふうに思うんですけれども、二〇一二年の九月の国会の中で初めて、文化芸術政策を充実し、国の基本政策に据えるという請願が採択をされたということがあって、この芸術と文化の発展は国民が求めているものだということなんだと考えるんですね。
芸術文化を発展させて国民が文化に親しんで楽しんでいくという上で、芸術家の皆さんであったり芸術団体の創造活動が長期的に、そして持続的に発展するということが重要で、そのためには国の支援というのが不可欠だというふうに考えるんですけれども、この国の支援ということについて、日比野参考人、どのようにお考えでしょうか。
○参考人(日比野克彦君) 僕の今日の説明のスライドのところで、例えば国の支援というときに、いっとき箱物の文化というのが話題になって、美術館、音楽ホール、劇場等が各地域に建てられました。各県に今、美術館、県立美術館、たくさんあります。大体それが一九八〇年代に建てられていまして、大体みんな、開館三十周年、三十五周年、四十周年というのがすごくここ数年、各地域であります。
私が関係している岐阜県美術館も一九八二年にできまして、今年が三十五周年で、建物が三十五年になると大体、耐震もありますし、リノベーションとか建て替えとかと今各地域で行われていて、すごく、八〇年ですから、それなりに名画、名品も収集しという、日本人が好きなゴッホとかを収集して目玉をつくり、観客を集め、これが文化だといって、この辺は言葉を選ばなくちゃいけないですけれども、これが文化としてすごく分かりやすいよねという時代がありましたけれども、いわゆる文化芸術に親しむとか、文化芸術が自分の地域にもあるよというのが変わってきていると思います。それは、いわゆる物ではなくて、一緒にその地域にある特性なり魅力を見付け出すことを行っていくという、それがその地域ならではの文化を発信することになっていく。
例えば、美術館の例でいいますと、昔は例えば展覧会が二か月行っていたとしたら、二か月のうちに一回美術館に行けば、その展覧会見れます。よっぽど好きな人じゃないと二度、三度行かない、一回しか行かない。ですから、年に例えば愛好家でも、展覧会が三本、企画展があったとしたら三回行くと。でも、最近、美術館ですごく一生懸命行っているのは、毎日美術館に行くようなことを試みている。小学生が帰りに美術館に寄る、退職者が一日美術館で時を過ごす、そういうような美術館にしていこうという試みがたくさんあります。
それは、その中に、いわゆる研究的なことじゃなくて教育普及とか地域の人たちと一緒にワークショップを行うことを考える、キュレーションを行えるような能力を持ったアートコミュニケーターというような人たちを美術館が雇用して、一緒になって、先ほど美術の教育のことについても話しましたけれども、地域の中で一緒になって物を作っていったり創造していこうという、いわゆる物を作ることが目的じゃなくて事を起こすことをやっていこうという、それがこれからのすごく文化とか芸術になっていくのだと思います。
なので、これまでの物的なものも当然ありますけれども、プラスもう一つ、次の時代のアートが社会の中で活躍できる、貢献できる能力としては、地域の特性、一人一人の特性を見える形にして発信していくという、それがこれからの文化芸術になっていくと思いますので、地方自治体であったり行政が行うことは、そのような人を育てる、そのような人たちが出会うような仕組みをつくる、組織をつくるという、決して箱ではなくて、そういう人が集まる場をデザインしていくということになるかと思います。
○岩渕友君 ありがとうございました。
野村参考人に次にお伺いしたいんですけれども、スポーツ振興法が五十年ぶりに全面的に改正をされて、スポーツ基本法が制定されてから六年がたつかなというふうに思うんですけれども、このスポーツ基本法が、スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは全ての人々の権利であるというふうにうたっています。けれども、一方で、障害者スポーツの置かれている状況は厳しいものがあると、先ほどからお話伺っていますけれども、考えるんですね。
パラリンピックの大会に出場した経験者の皆さんでつくっている日本パラリンピアンズ協会というところがありますけれども、ここが行った昨年の調査の結果では、選手が競技をする上で年間の自己負担額が百四十七万円に上ると。車椅子で、先ほど少しお話あったんですけれども、体育館の床に傷が付くということで、代表選手であっても施設の利用を断られるケースが二割を超えていたという結果が出されています。
スポーツ基本計画の中では、成人週一回以上のスポーツ実施率、三人に二人になることを政策目標に掲げているけれども、御紹介あったように、障害者の皆さんは週一回以上のスポーツ実施率が一九・二%になっている、そこにとどまっている状況だということで、障害者が生き生きと生きられる社会、障害者スポーツのより良い環境の整備というのは、政治も含めて大きな課題になっているというふうに考えるんです。そのより良い環境の整備のために必要だと思うこと、先ほどから述べていただいているんですけれども、特に重要だというふうに思われることを是非お聞かせください。
○参考人(野村一路君) 御質問ありがとうございます。
特に必要なことということでトップに挙げるとすれば、やはり障害のある方だけで運動やスポーツをしようとするのではなくて、地域で障害があるなしにかかわらず一緒にやっていくんだと、それはどうしたらできるんだということを工夫する、そういったリーダー、あるいは指導者、あるいはコーディネーター、そういう人たちの養成だというふうに思います。
そういうことができるキーパーソンを育てない限り、地域ではなかなか、これまで障害者福祉部局でやっていたことがいきなりスポーツ庁に移ったからといってすぐできるわけではないので、いまだに、都道府県で障害のある方々のスポーツを担当している部局は四十七都道府県中四十府県でまだ障害福祉部局なんです。つまり、スポーツ庁のその窓口となるところはまだまだ地方自治体にいけばまだしっかりとできていないというところなんですね。
ですので、やはり地域においては、そういったキーパーソンによる、今総合型地域スポーツクラブというのもできつつありますけれども、そうした受皿をしっかりと構築して、そしてその中にあらゆる人を取り込んでいくということが最も重要なことかなというふうに思います。
○岩渕友君 ありがとうございました。以上です。